ある朝、国民全員の口座に日本政府から同じ金額が振り込まれた。
通知はひどく事務的だった。
「ベーシックインカム支給開始のお知らせ」
RBはスマホの画面を見つめた。月十万円。働かなくてもぎりぎり生きていける程度の金額だ。これが毎月必ず振り込まれる。
街は最初、お祭り騒ぎになった。
「ついに自由の時代だ!」
「嫌な仕事が辞められる!」
「もう満員電車に乗らなくていい!」
ソーシャルメディアには、平日に海辺で寝そべる写真や、優雅に昼から飲む動画が溢れた。ベーシックインカムの是非について評論家は語り、経済学者は討論し、政治家は胸を張った。
「資本主義社会が終わり、人類はついに労働から解放されるのだ」と。
一ヶ月後。
コンビニのレジには誰もいなかった。いや、正確にはいたが、全員が「週一勤務・一日二時間」で、シフト表は穴だらけだった。
宅配便はいつまで経っても届かない。飲食店は気まぐれに開き、病院の待合室には「不定期診療中。本日の医師は、やる気が出たら来ます」と張り紙があった。
RBはスーパーで空っぽの棚を見ながら呟いた。
「食べ物がない……。ベーシックインカムの負の側面は大きいな」
そのとき、棚の向こうから老人が顔を出した。青い作業服を着て、片手に段ボール箱を抱えている。
「若いの、トマトなら裏に少しあるぞ」
RBは礼を言って裏へ回った。意外なことに裏口には汗をかきながら荷物を運ぶ従業員が何人かいた。みんな疲れていそうなのに穏やかな雰囲気だった。
「ここの人たちはなぜ働いてるんですか?」
老人は箱を下ろして言った。
「食うためじゃなくなったからだよ」
RBは意味がわからず、黙った。
老人はトマトを一つ持ち上げた。
「食っていく収入を得るためだと怠惰な人間は最低限しか働かない。目的に照らせば当然の行動だろうね。だが、食うことが保証されると違う動機で働き始める。自分は社会の何の役に立つのかという哲学的な問いだけが」
「でも、働かない人も多いです」
「そりゃそうだ。哲学的な問いから逃げる人間もいる」
老人は笑った。
「ベーシックインカムは単に金を配る制度じゃない。生きる階層を上げる制度だ」
その言葉は、RBの胸に妙に重く落ちた。
数ヶ月後、街は少しずつ変わった。相変わらず数字だけを追う方針だった会社は人が集まらずに潰れた。怒鳴る上司のいる職場は空っぽになった。だが、腕のいいパン屋、丁寧な介護士、面白い教師、誠実な町工場には人が戻ってきた。
その仕事じゃなくても生きられるようになって、初めて「それでもやりたい仕事」だけが残ったのだ。「変化に対応した者が生き残る」裏を返せば「変化に対応できない者は淘汰される」というダーウィンの進化論を彷彿とさせる。
ある日、RBは証券会社を辞めた。
周囲は驚いた。
「せっかく高収入なのに」
「安定してるのに」
「ベーシックインカムがあるからってそんな無茶を……」
その後、RBは小さな投資ファンドを作った。条件は一つだけ。
「生活の不安が煽られなくても人が集まる事業にのみ投資する」
会社HPの経営理念にはこう書いた。
「投資とは、金を増やすことではない。人が未来に賭けたくなる場所へ、資本を流すことである」
応募書類の山を前に、RBはふと思った。人類は働く必要がなくなって、ようやく本当にやりたい仕事を見つけられるようになった。



